事故に遭った
poyon さん family
AUG. 10, 1997  パプアニューギニア
私たち夫婦はパプアニューギニア、ビスマルク海のダイブクルーズに参加、クルーズの初日に思っても見なかったダイビン グ以外の場でのボート沈没事故に遭い、漂流した

私たちは幸いにして救助されたが、未だに行方不明の方が三名あり、このリポートを残す事によって少しでもこのような事故が減少し、また事故から身を守ることにつながるヒントになる事を希望する。

199789日夜、関空発のポートモレスビー直行便にて出発、10日朝国内線に乗り継いでニューブリテン島ホスキンスに到着した。空港へは今回の事故の当事者となるダイブ・ホスキンスのオーストラリア人ダイブマスター(DM)のFがピックアップにきており、一旦近くのホテルにて休息後バンにてクルーズの出発地、キンベへ向かった。

一時間弱でキンベのジェッティーに着き、ダイビングクルーザー「エクスプローラーU(EXU)」に乗船したのは昼近くになっていたと思う。乗船後は部屋を割り振りされ、荷物整理やランチで慌しくしている間にEXUは出港していた。キンベ湾のクルーズであったが風が強く、波も2〜3mは立っていたようでかなり揺れるクルーズがつづいた。この途中、スタッフがエアーのチャージが思うように行かないようで、何度もコンプレッサーとタンクをつないだりはずしたりしていたので変に思ったが、後から考えればこの時すでにジェネレーターのトラブルが発生していた事がわかる。

3時間位のクルーズでホスキンス空港沖のリーフの内側で海の静かな場所へEXUは停泊し、1本目のダイビングを行う事となった。このクルーズには日本人ゲストのみで私たちを含み13名参加しており、そのうち6名は大阪にあるBダイビングショップから参加の為1チームとなり先にダイビングに出発。残りの私たち7名は後から小さなFRP製のボートでダイビングに出る予定だったが、私の妻だけは体調の問題で不参加になり、6名で出発した。アクアリウムというポイントで午後3時37分にエントリー、4時34分にエグジットしてEXUに戻ったのは5時ぐらいになっていたと思う。この時のダイビングはインリーフであり、海の状況は静かで流れもなく、楽なダイビングであった事と、私たちのグループに1名だけビギナーがいる事ぐらいしか感じていなかった。このダイビングのガイドがFであった。

その後、スタッフよりEXUのジェネレーターが故障した為、一旦キンベへ引き返す事を伝えられ、仕方ないと思った。

夕食の時間になって、テーブルが二つだった。一方はBダイビングショップの6名が使い、他方で事故にあった私たち7人が食事をしている最中、何度かエンジンのスターターを回す音が聞こえてきたがエンジンはかからなかった。そして、DMFよりバッテリーがあがってしまいEXUはキンベへ引き返す事が出来ず、また、電気がない為全部のゲストのケアが出来ないので、半分のゲストはホスキンスのホテルで一泊し、翌朝EXUに戻るように依頼があり、私たち7名が(というより、私たちのテーブルが)指名された。私たちには一泊の準備と波をかぶるので水着で行くように指示された。私たちをホスキンスへ送ったボートで修理部品を持ち帰るとのことだった。

8時ごろだったと思うが水着にT−シャツ姿で先ほどダイビングに使ったFRPのボートに乗り込んでいったが、この時点ではゲストどうしの自己紹介もしておらず、ただ7人乗ったことしか解らなかった。EXUからボートへ乗り移るときに、ここまでのクルーズで波が高かった事をみんな知っている為、DMFや他のクルーにライフジャケットは必要ないのかといっている者もいたし、私自身もFに対してBCでも着ていったらどうかと言ったが何の返事もなかった。もちろん、ライフジャケットは渡されなかった。

全員がボートに乗り移ったが、ボートの船外機がなかなかスタートできず、EXUから数十メーター流されたときにもう一台の金属製のゾディアック型のボートが助けにきて、やっとエンジンが始動した。これでボートは出発したのだが流されていた為か、すぐにリーフ上に乗り上げてしまって船底を擦り、リーフで砕ける大波をかぶりながら進んだ。リーフをぬけた後は波も高くみんな持ってきていた水中ライトで前方を照らし、ボートの前側のクルーが方向、速度を後方で船外機を操作するDMFに指示していたが、大声でも聞こえないほどに海がどんどん荒くなっていった。

一つ一つの波を超低速で乗り越えるように進んだが波は大きくなる一方で、ボート内への浸水も多くなり、私がいた前の方でさえ海水が溜まってきた。この時点で、私とK氏、T氏の3人はそれぞれ履いていたマリンブーツで海水のかき出しを始めた。

さらに数分後、出発してから30〜40分過ぎた午後8時30分頃と思うが、大きな波をまともに被ったのと同時に誰が言ったか解らないが「かきだせ」の声(たぶん)で全員始めようとしたが、次の瞬間、ボートは完全に水面下となり、全員沈みかけたボートを捨て、周りにつかまろうとした。

すぐにボートは裏返しになり浮いてきたのでその周りにしがみつく事が出来た(つかまる所がないためしがみついた)。また、ボートの先端から出ているロープがちょうどボートの上(水面より上)を通っていたのでこれにつかまる事が出来た者もいた。

この状態になったとき私は思ったより冷静に状況が判断でき、パニックに陥ることはなく、妻の様子も確認していた。そして、この状況下でどう考えても助かる要素は全くなく、自分自身はここで覚悟は決めていた。妻には、「最後までがんばれ。ただ、覚悟はしておけ。」と声をかけた。考えていた事は、楽に死ねるかとか、自分の葬式の事などだった。

この状態も数分で変わってきた。こんどは船外機の重量の為か、ボートは後方から沈み始めた。このまま沈んでしまうのかと思ったが、運良くボートの先端を70〜80cm水面へ出してやや裏側へ伏せた形で浮いて止まった。図のような位置関係で7人が取り敢えずボートにつかまる事が出来た。また、この時点で、ローカルのスタッフ1名が岸に向かって泳ぎだしたことと、1名の日本人ゲストがいないことがみんなの話のなかで分かってきた。

しばらくすると、それぞれ楽が出来るように考え出していて、I氏夫妻はボートの側面に張ってあるゴムの隙間に指先をねじ込んで体をささえ、私の妻は先端から垂れ下がったロープの輪に腕を通して体を持ち上げていた。私のところはゴムに指をかけると位置的に高いところなので体を持ち上げる事になり、長時間はつずけられず、ロープに持ち替えて立ち泳ぎ状態になったり、またゴムに戻ったりしていた。

もうすでにボートが沈んでから30分ぐらいは経過していて、周りの様子も良分かってきていて、T氏夫妻が二人ともパニック状態であることに気が付いた。呼吸が荒れていて、苦しそうで、危険な状態だと思っていた。私は流れ出たガソリンが目に入り瞬間的にしか目が開けられなくなっていた中で、落ち着いていられたと思う。

さらに30分ぐらい経過していたと思うが、T夫人がうつ伏せになって浮いて流されていくのを見たときは、次は自分なのか、などと考えてしまった。

その後にI氏の音頭で点呼をとってがんばろうと番号を言っていったのだが、T氏がまだ奥さんが流されてしまった事を知らない為(この時は私しか知らなかったと思う)、番号をごまかしたり、わざと中断させたりして気づかれないようにした。さらに、一時はパニックから抜け出したかのように見えたT氏もしばらくして「たすけて…」と言いながら流されてしまった。

最初に時計を確認したのは午後11時頃だったと思う。この頃になると、少しは余裕ができてきて、髪についた夜光虫がすごく綺麗な事に気が付いたりもしてきた。そして、時々見える灯りが捜索のボートと思い、一つだけ残った水中ライトを振ったり、陸の見える灯りや、月明かりに浮かぶ陸のシルエットの変化によって、陸の方に流れているような気になったりしていた。ただ、DMFはこの時間になると呼びかけても返事もなく、水中ライトを振ったり私たちがボートを起そうとしても手伝う事もなく、自分自身のことで精一杯になっていたようだ。

12時を過ぎ、日付けが替った頃より今度は寒さとの戦いになっていった。水温は25℃あったのだが、やはり水着だけではどんどん冷えてきた。特に妻の場合、ロープに腕を通して体を持ち上げていた為、風があたり体温が低下している様子なので、時々ロープをはずして上半身も海へつけて休ませてまた持ち上げて体をささえるようにしていた。これを繰り返すうちに私は持ち上げる力が出せるようにロープを足に巻いたりしたので、脚の裏側が火傷のように皮が剥け落ちてしまっていた。

2時頃には寒さ、のどの渇き、疲れなどからみんなの口数も少なくなっていた。私は口にはしなかったが「あと何時間もつか」とか「夜明けまでもたない…」とか考えるようになっていた。

そんな時、I夫人が岸(ホスキンス)まで泳いでいくと言い、I氏に止められていた。このまま寒さでダメなのなら泳いでみるという気持ちも良くわかったが、結果的にI氏が言ったとおり留まって正解だった。とにかく寒かった。

3時頃になって、自分自身があと1時間ぐらいで限界でないかと思うようになった。夜明けまではまだ3時間もあり、夜中に発見される可能性は殆どない状況で、何とかしなければとの思いから、ボートが引きずっているか引っかかっているアンカーをはずして岸の方へ流れる状態にしたくてロープをたぐっていた。

その時、近づいてくる灯りに気づき水中ライトで合図を送った。

EXUの持っているもう一台のボート(ゾディアック型の金属製ボート)だった。

ボートにあがってまず水をもらった。タオルが欲しかったのだが用意されていなかった。適当にある物を頭から被って寒さを凌いでいたが、ボートはホスキンスへ向かうのではなくEXUを探し始めた。しかし見つけられず海上を彷徨っている様子なので、DMFになぜホスキンスへ向かわないのか聞いたが、Fの返事は自分が決める事ではなく、ボートのキャプテンが決める事と言うだけ。結局夜明けまで探しても発見できず、ホスキンスのダイビングセンターの入っているホテルへ向かった。実に3時間も引っ張り回されたのだった。

上陸後、DMFは何も言わず一人だけホテルへ帰ってしまい、私たち4人はビーチに置き去りになっていた。すぐにローカルが集まってきたのでタオルを借りたりできた。I夫妻はローカルの肩を借りて歩く事が出来たので、ホテルへ向かったが、私の妻は低体温の為か歩けず、その場でバナナやココナッツを貰い、焚火をしてもらったりして、しばらくしてから、車に乗せてもらいホテルへ行った。

ホテルでシャワーを使い、着替えを借りて落ち着いたところでFと話しをした。この時のFの話はボートに乗っていたのは日本人6名、ローカル・スタッフ2名とF7名で、その内の日本人2名とローカル2名が行方不明といっていた。

しかし、日本人の行方不明は間違いなく3名だった。

さらに日本の関係者(エージェント、家族等)には全く連絡がしてない事をFから聞いて、また、全く連絡する気もないので、私から日本のエージェントTELすることを確認し、日本時間の朝10時頃一報を入れた。

その後はキンベのクリニック、同じくキンベにある同系列のホテルへ連れて行かれた。

午後になって日本人が1名病院に収容されているとの情報ですぐに連れて行ってもらうとK氏が怪我もなく救助されていた。彼はボートの燃料タンクにつかまって岸まで泳ごうとしたがたどり着けず、流されているところを私たちを救助したのと同じボートに朝7時頃発見されていた。

私は足の皮の剥けてしまっている傷がクリニックでは処置してもらえず、夜になってから病院へ行ったが、以降10日間ほど車椅子の生活になっていた。

この事故に遭ってなぜ助かる事が出来たか、どのような問題点があったか考えてみたい。

私たちが助かった理由は第一にパニックに陥ることがなく、すぐに状況を判断して開き直る事が出来た点にあると思う。そして私自身がパニックを回避できたのはダイビングの経験である程度海に慣れていた事、この年の5月までマレーシアでダイブマスターのトレーニングを受けていたことがあると思う。また、これにより、私よりダイビングの経験の浅い妻の状況を看ることも出来たと思っている。いっしょに救助されたI夫妻も500本以上の経験をされているエキスパートであった。ただ、行方のわからないI夫人がビギナーダイバーだった事が残念である。 問題点もいろいろ出てきた。

まず、状況でライフジャケット、もしくはBCもなくボートを出した事である。そのボートに乗った私たちにも問題があると指摘されるかもしれないが、インリーフの静かな海に停泊中のEXUにいる私たちにはその時間の海の様子は判断できず、リーフの外へ出てしまうアクシデントも予測不能で、やはりキャプテンの指示に従うしかなかった。

次にDMF。遭難後の彼はスタッフではなく、まるでゲストのようになってしまった。ボートにホスキンスへ向かう指示も出来ず、ビーチへ上がれば自分だけホテルへ逃げ帰ってしまい、日本との連絡もとろうともせず。上記したとおり彼自身が自分の事で精一杯だったのだろうが、ボートが沈んだ時から何一つ出来ないのではDMとしていかがなものか?

PNGという国の問題もある。アジアでも最後進国の1つだと思うが、怪我で病院へ行っても薬品がなく、町の薬局出買って持ち込まなくてはならないことや、イソジンのような消毒薬がなく、大変痛い思いをすることになる。また日本語は現地では全く通じないので病院、役所、警察の事情聴取などすべて英語(幸い英語は何処でも通じる)で処理しなければならず、こういう事故の後だけにストレスも大きい。さらに民族意識が極めて高い国なので、ローカルが行方不明ということで、仕返しの危険がありホテルの外へは出られず、病院へ行くのにもホテルのセキュリティ・スタッフの護衛つきである。このような国へ行くことのリスクは考えておかなければならない。私の場合、マレーシアの田舎に1年半程住んでいた直後だった為何とかこのような環境をクリアできたが、それがなかったらもっと大変だったと思う。

もう一つ、今回直接の事故を免れた大阪のBダイビング・ショップのこと。私たち個人で参加しているのと違いダイビング・ショップのツアーとして参加している場合は、ショップのオーナーにとってはビジネスであり、出来る限りのビジネス上のリスクを回避したい気持ちは理解できる。しかしながら、ショップの名前が報道されて評判を落とすことを嫌い、私たちの代表と嘘をついて私たち当事者と日本大使館などとの連絡の間に入り込み、直接話をする事の妨害する事はあってはならない事ではないだろうか?

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